「無題」 修正予定
「無題」
私はここの海をよく知らない。
見ていたのはいつも、その周縁だったから。
走り抜けていく車が時々鳴らすクラクションと、それに呼応する人々の、ほどけた声。
道を隔てた向こうに、座り込む群衆、そして母。
濡れたアスファルトの上、時間が来れば、
人々は互いの身体をぎゅうと寄せ合い、腕を組み、じっと地面にへばりつく。
けれど、意志によって強められていた身体は、かたい靴と紺色に身を包む人たちに、あっさり剥がされていった。
ひとり、ひとり、引き抜かれ、次は母。
彼らは淡々と、少し気だるそうに、その身体を掴んだ。
腕を引き、立たせて、歩かせる。
目の前の仕事を、こなす。
彼らは、自分が掴む人を、見てはいなかった。
このとき、ただの群衆ひとりは、決して重いものにはならなかった。
何も知らないのに。
地面につけられた、裸の手の柔らかさも、
この人の身体も、その言葉も。
触るな。
憎しみで、自分の周わりを見ると、隣に立つ少年が泣いていた。
彼も、彼の母を見ていた。
たぶん、飛行機でここまで来た彼は、どうしようもなく向こうを見つめて、
固まった身体からは、しゃくりあげるときだけ、小さな声が漏れ出た。
私は彼の肩にそっと触れて、自分にも同じ涙が流れているのを見せた。
できたことは、それだけだった。
同じ色をした集団を、私が「彼ら」としたのと同じように。
相手を見ないとき、向こうもこちらを見返しているということが、わからない。
肉にはりついた、それだけの目で世界を見ているから。
この肉を離れたい。
そうすればきっと、もう過ちを犯さない。
彼らはいない。
大切な人も、今はいない。
私も、今のこの呼び方ではない。
自分を遠くに感じる地点に戻って、また外を見たい。
恐れを突破して、自分を感じないところへ、また行けたら、
私はそのとき、ほんとうに他者に触れることができる。
「日常からの投石」
「日常からの投石」
「そんなつもりじゃなかった。ごめん。」
閉じた手を開いて見たときにこぼれた言葉
さっきまで私の手をあちこちと、いそがしく巡っていた小さな蟻は、今はひっそり動かない
あそこの水で流そう
それはわたしの手の中をくるくる回って、青く茂る草の間へ落ちた
正午、あらゆるものが白く光を反射する
風と水、人間以外の生きものの声だけが 聞こえる
小さい蟻をころした
生きていたものをころしたのだな、と思う
水を止めよう、と立ちながら、ところで、とまた思う
小さな生き物にも自然にあのような言葉の出る私は、決してそう悪くない心を持っているのではないかと
ひやり 何かがわたしの中で嫌にうごく
変わらず静かな世界で、内側だけがぐらぐら動く
調子づく心を引き留めようとする何かの反発
どうしてだろうか、自然に湧いたはずの言葉が急に作りもののようになったのは
理由など思わず、ただ湧いたまま、触れずにいれば−
いや、心地よさを感じかけたことが、そもそもの浅さの証明
隙あらば、自分の心に都合よくあらゆるものを消費する
これは、今まで流し、突き詰めないでいた物事からのひとつの投石
昼下がり、ぬるく光る水滴がわたしの内部に小さな痕を残す
2022.8